日記-12

大きな壁に直面する味を、今年は何度も経験している気がする。

今日もそうであった。逃げていたことと向き合うのが、何よりも恐ろしく、また偉大であると思い知った。

 

絵を描いている際、どうしてもうまくいかないのは、間違いなく当人の努力不足である。特に、私は他人より劣る、劣るのであるから、なおさら努力せねばならない。

努力は人の美徳である。積み木を積めば崩れるのが怖いが、その分高所に手が届く。

 

自らを無能だと信じ抜き、だからこそ努力する意思を持たねばならない。

私は人生を賭けて無能論文を書き上げるのだ。無能の無能による無能のための作品群を作るのだ。最も美しく生きた無能になるのだ。その日まで油断してはならぬ。常に美しくあらねばならぬ。上を向かねばならぬ。今に満足してはならぬ。自らを追い詰め、かつ疑いつつ信じねばならぬ。

日記-11

理想に足をかけた段階であると、否応なしに自覚させられる日々である。

努力する決心を決めて尚、自らの怠惰性に腹が立つ。

 

私は常より無駄を過ごすことが多い人類であり、それでは綺麗になれないと知りつつ、しかし己の怠惰性によってこれに甘んじてしまうのが、何よりも腹が立つ。

 

綺麗になりたい。何よりもこの一心で生きる。人生を芸術として生きる。そうでなければ私で無いと知りつつ生きる。その程度でなければいけない。

 

私は変わらねばならない。一歩を踏み出すというのは、そういうことだろう。

日記-10

今と昔を比べる機会が有った。その変化には驚かされた。

自らを見つめ直して得た知見のもたらす変化は、人を驚くべき速度で変化させ得る。

 

それは、僅か一週間前の絵を破り捨てたくなる衝動に駆られる程度には、強烈に現れるものである。

 

歩みは、確実である。ただ、手探りの状況から一転して、指針が見えた。灯台が回り始めたのだ。

 

これから道はまだ続き、或いは灯台を見失うこともあろうが、しかし私はやはり、己を鑑みることによって新たに見つけ出すのだ。

 

そう思えた機会で有った。

日記-9

美のために生きると言うのは全く心軽く弾む行為である。

己の美徳のみを拠り所にするのは、余程己の求むる生活であるのだろう。

 

であるから、今日の生活も心地の良いものであった。素直と優しさ、努力は人の美徳である。それに従い生きることの心地よさ!

 

胸が軽くなった気でいる。されど耽美と放蕩は異なるものである。本来の意義を見失ってはならない。私は美によって生かされ、また美によってのみ生きねばならぬ。

 

どうせ絵を描いておらねば死ぬ性分である。ならばいっそ思い切り書くのが良い。

 

本日の絵である。

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日記-8

耽美を主義に掲げて生きて行くと結論付ける。

脆い杖でも無いよりはましである。

これまでもそうであった様に。

 

美に対しての執着は人一倍であると理解はしているつもりであったが、己が耽美であるとは思いも寄らなかった。納得ではあるにせよ。

 

これからはより美に耽る生活を送らねばならない。

美しくあろうと生きるのだ。詩の様に生きるのだ。

日記-7

どうも虚無感を感じてならぬ。

絵を描いたが、改善点がいくつも見える。学ぶべきところが多すぎる。成長しなくてはならぬ。

 

発想が凡になった様に思う。より突飛にならねばならぬ。そのためには知識である。我々現代人の特権は、先人の知恵を享受できるところにあるのだ。

 

服の知識をつけたいと思う。そのためには学びあるのみである。雑誌を買うのも良い。漫画を見るのも良い。

 

ただ、学びあるのみである。

憧憬の人の画集を買うことを心に決めた。

綺麗に生きる為の足掛かりとして。

日記-6

鏡を見る度溜息を吐く人生を終わらせねばならぬ。

やはり整形を行うべきであると強く感ずるに至った。

そうでなければ幸せにならぬ。人の持ち得る幸せを私が得るには、そうしなければならぬ。

 

私の好きな言葉を引用するなら、『僕はまだマイナスなんだ、ゼロに向かって行きたい』と言うことであろうか。全く私もその通りである。歩むためには立たねばならぬのだ。

 

絵に関しては、きっかけを掴めた様に思う。

流れが肝要である。万事そうである。

清流の様な人にならなければならない。そうであらねば私の求むる私から乖離する。

 

煙の様に、詩の様に、清流の様に生きねばならぬ。

綺麗になりたい。その一心で、極めてエゴイスト的発想で歩まねばならぬ。

 

以下が本日の絵である。

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